who are you?

自分が何者かになっていく過程の記録。題は梨木香歩著裏庭の中の台詞から。

欲望による破壊

自分の欲を理解することが大事。

 

そう聞いてから、少しずつ欲を探している。

 

ずっと、少しずつしまいこんでいった私の欲たちを少しずつ、ほり出す。

 

美味しいものを、ゆっくり食べたい。

人がいて、適度に賑やかなところにいたい。

きれいな服を着たい。

美しくなりたい。

誰かと一緒にいたい。

かまってほしい。

思い煩うことなく、眠りにつきたい。

願わくばすべての人が、思い煩うことなく生きていてほしい。

 

 

ごくごく当たり前の欲望をあまりにもしまいこんでしまうと、行き先がわからなくなるんだな。

 

だけど掘り起こしても、持て余してしまう。

 

私は私に、欲があることを、許せていない。

しまいこんで、しまいこんで、しまいこんでなお強欲だと思っていた。

でも無欲を気取っていた。

 

強欲な、私。

 

欲を受け入れたら、多分今の私は壊れてしまう。

壊さなきゃいけないのだろう。

壊れたらどうなるかわからないから怖いのだろう。

 

 

休みの日、誰にも会わないからといつもより少し綺麗な服を着てでかけ、少し誰かに会うのを期待していた。

わたしの欲は、少しずつわたしを壊していく。

ほんの少しずつ。

世界の切れ目と私の世界

頭の回転が速いのだと言われるが、私は早口になりやすい。

 

実際は結構ムラがある。遅い時は遅い。

 

綺麗な話し方を、ゆっくりと間を持った話し方を。それでいてきちんと的を得た話し方をしたい。

 今みたいに数撃ちゃ当たる方式じゃ無くてね。

  

もともと私はあまりおしゃべりができないタイプだったらしい。祖母は私が喋らないことを心配していたとこの前聞いた。そんな心配されてることに気づきもしなかったけれど。

 

無理矢理話すようにしたら頭の中のいろいろがとめど無く溢れることになったらしい。

 まだ世の中とうまく距離感取れてねぇんだな、と思う。

 

私の外の世界と、私の中の世界の切れ目は、きっとこの皮膚の上にはない。でも、どこにあるのだろう?

 

私は分からない。ぎゅうっと心臓より小さくなってしまうこともあるし、地球いっぱいに広がることもある。

大抵は、どこにあるかわからない。

 

みなさんの世界は、どこに切れ目がありますか?みんな、わかっていて過ごしているのですか?

 

私にはあなたのことが分からない。

私のことも分からないけれど。

たくさんのわからない人がみんな毎日生きていて、世界は不思議なところだと思うのだ。

自分を閉じ込めているのは自分

どうしようもなく愚痴が多くなって、今週は疲れ果ててしまった。

 

少し時間ができて、みんなが私の苦労話を聞いてくれるようになったのが原因だと思う。先週はどうにもこうにも何もうまくいかなくてフラストレーションが溜まっていたし、それを隠しもしなかった。隠す余裕がなかったのだ。なので周りがずいぶんと心配してくれた。

 

たくさん愚痴を言ったら、とっても惨めな気持ちになった。自分の悪いところがたくさんたくさんで見えてきた。相手に文句を言うときは、大概自分が半分以上悪かったりする。愚痴れば愚痴るほどそれを実感してどうにも悲しくなってしまった。

 

私は何がしたいのか、最近はもうずいぶんとわからなくなった。まぁもともとよくわからないから、こんなブログ名でやっているんだけれど。一つ一つの行動に、そんな自分の内面が現れ始めて結構辛い。

私がやることを留めて、自分を閉じ込めているのはほかならぬ自分自身だ。

いつからかわからないけれど、自分の好きなことや自分のやりたいことを素直にそのまま口に出すのは憚られるようになってしまった。意識して意識して意識して、自分のやりたいことをを外に出すようにしていたけれど、結局それって対外用に作られた私の欲望だった。

 

本当の生々しくて、アホで、幼稚な私の欲望は、なかなか外に出てくることがない。

この生々しさを出せるようになればもう少し楽になれるのかなあと、結局家でも仕事をしてしまいながら思うんだ。

 

最近ディスケ・がウデーレと言う言葉を思い出して、本当に大事だなぁと思う。

閉じ込められたところから出て、思い切り楽しみたい。

 

私を守らなきゃいけない世界

後輩がFacebookに結構辛そうな記事を書いていた。周りの人が自分の身を守るような発言ばかりしていて疲れてしまうと言うような内容。なんだかその状況がとても想像できて、私も結構ぐったりしてしまった。

 

思うに今自分を守らなくちゃいけない世界に私達は飲み込まれているのかもしれない。あまりにも評価されるからなのか、それとも現代人の能力というものがとても落ちてしまったからなのかそれはわからない。

 

とにかく私たちは自分の弱いところを隠して強がって見せながら生きているし、そうしなくちゃとても生きていけなかったりする。

 

私はやっぱり強がってしまう方の人間ではあるけれど、何よりも自分の力をそのまま認めてもらえた時に1番ほっとするし、うれしく思う。自分に無い力を褒められたところで、ちっとも、ちっとも嬉しくない。

 

自分に身に付いていないと思った力を、なぜか人に認められてしまって、その力を自分で背負って行かなきゃいけなくなったとき、私は人生の中で1番重圧を感じた。

 

世界にに嘘をついて生きているようなものなのだ。それは法律的には問題ない。誰にも嘘はついてない。ちゃんと努力だってした。それでも私は、その力にふさわしいと自分では思えないのだ。それなのに周りは、私にその力がついたように振る舞う。

 

その周りこそ、自分を守りながら生きている人たちなのだ。あぁ、どうか私をその中に入れないでくれと何度も思った。

 

これは私に能力を塗りつけた側と此方側の信頼関係が欠如していることも大きいのだけれど、どうにもこうにも今の世の中の構造がこういったことを作り出してしまっているように思えてならない。

 

このことに気づいた後輩には、どうかこの世界の色に染まらずに、でも元気に過ごしていってほしいものだと、もうその世界に染まってしまってどうしようもなくなった頼りのない私は、心の中からエールを送るしか無い。私を守りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の理屈っぽさに気づいて。

感情的な人間だと思っていた。

テンションがコントロールできないからだ。感情の揺れは外に出る。だから、なるべく論理的に物事を進めるようにしてきた。

 

私は、確かに感情的だった。だけど同時に理屈っぽくもなってしまった。論理的になろうとして、それが少し下手くそだった。

 

今、割と論理的な人間の中で生きている。そこで話す私は感情的で理屈っぽい。論理的とは程遠い人間だった。しかし、私の周りの論理的に見える人たちもまた、感情的で理屈っぽかった。

 

論理的になんて、世界は進まない。

私達はほんの少しの理屈っぽさを拗らせて、なんとか世界を把握しようとしているんだ。感情が、すべてを決める。

 

論理はつまり、世の中をちょっと面白くするガイドラインだ。感情とエネルギー渦巻く世の中を楽しく渡っていくための。

 

たくさんの感情とエネルギーに翻弄されるごとに、私はますます理屈っぽくなっていく。

 

 

 

 

憧れの生き方を拾い集める

なんだか時々上手に生活が送れなくなることがある。
なぜだかはわからないけれど、どうやっても思う通りに動けない。

例えば、今日は早く帰ってきたから早くお風呂に入って早く寝よう、そう思うのに、ひたすらとぼんやりと過ごしてしまったり。

朝ご飯なんて、その最たる例で全く以ておしゃれな朝ごはんを作って食べたりだとか、そういう事はできないのである。

日々の生活もそうだけれど、例えば持ち物であるとか、服装であるとか、お化粧であるとかそういったものにどうやっても本腰を入れられない。人よりも、とても強いこだわりがあると言うのに。

思うに、私は自分のスタイルというか、憧れの生き方や目指すべき自分の像がまだはっきりと自分の中に描けていないのだ。
だからぼんやり戸惑い続けて、何もできずにいる。
目標がなければ、達成までの道のりもわかるわけがないのに、私は何をやっているんだろうと愕然とした。しかし同時に、こうやってぼんやりと戸惑い続けている自分をわりと好きであることにも気がついて、今起こっている自分の現状に納得した。

自分自身で決めていくしかないのだ。なんてったって自分の生き方なのだから。それでも何か目標や、お手本になるような人がいてほしいとこのままでは叶いもしない願望を抱き続けたまま毎日を過ごす。

あぁ、いろんな人に会おう。きっと、とある1人の人物が私の憧れになるわけではない。何も思いつかない限り、私はいろんな人の素敵なピースを拾い集めていくしかないのだ。